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吉村昭『間宮林蔵』


シャナ(紗那村)、ナイボ(内保村)、フレベツ(振別村)と言った、北海道の地名を彷彿とさせる響き、サハリン=樺太という土地はしかし日本の支配下にあった戦前の人とその時代を体験していない戦後の人との意識では全く異なります。 江戸時代、当時原住民が実効支配していたその地を探検し、世界で初めてサハリンが島であることを発見した日本人が間宮林蔵でした。

郷里の近く、日本最北端の地・宗谷岬から稚内に向かう緩やかな湾の中に、間宮林蔵の石碑(間宮林蔵渡樺出港の地)があります。
子供のころは、その前の道路を通るたびに両親から氏が立派な人だったと教えられたものでした。昔の教科書には載っている偉人、現代の教科書にもまだ載っているのでしょうかね?
教科書には載っていないとしても当地稚内では当然ながら有名な人物です。

晴れた日には、樺太の島影がはっきりと見えるその石碑の地から間宮は樺太を目指したのでした。

その目的は幕府の命を受け、樺太が島なのか中国大陸と陸続きの半島なのかが、世界地理上の最後の謎とされていたからで、それを解明することは国防的に重要なことだったのでした。
この樺太の地理の謎については、当時の列強オランダやソ連の探検家たちも我先に解明しようと挑んだのですが、いずれも中国大陸との海峡が水深1メートルという浅瀬と鬱蒼とした深い森そして極寒の気候が探検家の接近を拒絶しつづけたのでした。

そんな時代、幕府の令にてアイヌを引き連れ命がけで樺太を探検した彼はついに樺太が島であることを発見したのでした。

この農民上がりで、しかしながら健脚で頑強な体と強い精神力を持った彼の一生を著者は緻密な調査で丁寧に追っていきます。

間宮も一度では成功せず二度にわたり探検をします。極寒の気候、現地人(韃靼人)との交流や支援の必要性から、生活に慣れたアイヌの協力が必要でした。彼らと生活を共にしていた間宮はアイヌ語も話せ、彼らの協力を得ることが成功のカギでした。

ただし、この世界初の発見は、鎖国下の日本から諜報家であったシーボルトの手を経てヨーロッパへと渡りそして世界に広められたというのは皮肉でした。
後年開国後にヨーロッパの文物がもたらされた明治期の日本に、地図にしるされた形で「間宮」の名前は戻ってきたのです。
綿密な取材と、素晴らしい構築力で歴史を眼前に甦らせてくれる一冊でした。

[参考]
間宮林蔵の世界へようこそ
本と映画、日記のblog ・・・おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざなれば(徒然草)-吉村昭 間宮林蔵

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