つい勘違いしがちなのですが、生活環境や社会システムがIT技術の進化により大きく変化していることで、人間という生身の生物のレベルもそれに伴いそれ相応の進化を果たしてきていると考えてしまいがちです。
勘違いさせる要素はいくつかあります。従来でしたらアクセスするのに非常に労力を要した情報に簡単にアクセスすることが出来ることになったことより個人の持つ情報量は膨大に増えました。
ごく十数年前、つまりWeb以前の時代には、調べ物をするためには書物や辞典や読まなければなりませんでした。その書物を探すのにもそれなりの労力を要しました。
Web2.0時代になって、ググッたらすぐにそれなりの情報を得られてしまう。情報コストが極端に低下したのです。
また田舎からでも都会の様子も分かりますし、その逆も。
それは個人にとって大変ありがたいことです。知りたいことがすぐに分かるのです。
一方そのような多くの情報から、思考の方向性を加速させることにもなります。オタクと言われる現象がそのひとつです。ある種の分野に嗜好を持った個人は、その関連情報の収集や同好の興味を持つ人との情報の交換も簡単に出来るようになり、そのため興味のレベルをさらに増殖することが可能となります。
一例が、rtfも趣味としている将棋の世界で起こっています。プロの棋士は現在、プロ同士が行う対局の棋譜が、データーベースにアップロードされ次第即座にアクセスし入手できます。そのため局面の分析が急速に高度化しています。従来に登場した棋譜との類似検討や同一局面の検索も瞬時に可能となりました。
以前でしたら棋譜をファックスで将棋連盟から送ってもらい研究していたのです。それに比べると圧倒的な利便性の改善が分かると思います。
同様にネガティブな思考を持った者のネガティブ度も加速される性質が有ります。本当にネガティブ思考を持った者もいるでしょうし、それを茶化すものも、ちょっと覗き見感覚で身勝手な情報を流すものもいます。過剰な触媒が、はたらきやすく簡単に先鋭化させる慣性力が働きます。
ただ情報量の爆発的な保有量の増大とは裏腹に、人間自身の基本的なキャパシティや能力・行動規範といったものは、驚くほど進歩が無いのでは?と思っています。最近読んでいる古事記、なんということはない、現代の人間の盛っている悩み・煩悩は、神代の時代から人間に付き纏っていたし、それと格闘してきた行為そのものが人間の歴史であることを実感しています。一人一人の人間の行為は千数百年の時間を経てもほとんど変化が無いと言って過言ではありません。
それでは、この情報社会変化によって何が変わったのか?
2005年の芥川賞受賞作、「土の中の子供」の中で1977年生まれの当時27歳の中村文則さんは以下のように書いています。
「この世界の,目に見えない暗闇の奥に確かに存在する,
暴力的に人間や生物を支配しようとする運命というものに対して,そして力のないものに対し,圧倒的な力を行使しようとする,全ての存在に対して,私は叫ん
でいた。私は生きるのだ。お前らの思い通りに,なってたまるか。」
暴力で追い詰められていた私が,開き直って切れる瞬間だ。
小動物を落下させることで支配する感覚の中にノスタルジーを感じるという表現も研ぎ澄まされていた。
陳腐化された幼児虐待やトラウマ,PTSDと村上龍氏に揶揄されたものの、一連の凶悪事件の発生の触媒に、アクセスしてきた情報がその役割を担ったのではないでしょうか?
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが希望だけがない」と村上龍さん自身が、2000年7月の段階で綴った「希望の国のエクソダス」。予言自殺ではなく突然80万人の中学生が集団不登校といったラディカルなパワーを持つ行動に至る変化。
20代と小学生という社会的な弱者。本来ならあるレベルのネガティブ思考を持ったとしても過激な行動や犯罪行為を思いとどまらせる人間にさえ、触媒を過剰に付与し反社会化行動を起こさせる社会になっていると思えるのです。


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